訓練場の内側から回廊を見つめては、グレオニーは何度目かわからない溜息をついた。

グレオニーは彼が通りがかることを期待していた。
直接の用事ではなく、偶然に居合わせ、通り抜けざまにお互いを認めて、一瞬顔を綻ばせることを期待していた。
長く居て、自分のどうにもならない感情をうっかり露呈してしまうことを恐れてだ。
全く影のひとつの見られないで、何事も無く日を過ごせるほど、グレオニーと彼との関係は浅くは無い。
もっとも毎日のように顔を合わせるそれは、剣術の指導者と生徒だったり、他愛無い話を長くできる友人関係だったりする。

いま現在のグレオニーが持ち合わせている感情とはつながらない。
グレオニーは彼に愛情を抱いていた。
家族愛だとか庇護愛だとかも入り混じってはいたが、ひとりの男として彼の側に立っていたいというグレオニーの欲であった。

グレオニーはごくごく最近、言うなれば、つい五日前にそれを自覚した。
可愛らしい弟のような感覚で取っていたその手を、意識しすぎてまともに触れなかったことを思い出す。
疑問符を浮かべる上目遣いの瞳に動揺してしまって、喉にひっかかった唾を飲み込めなかったことを思い出す。
無様なものである。

しかしそんな醜態さえ気に病んでいられないくらい、グレオニーの頭の中は、本日出会える彼のことでいっぱいである。
昨日のことは昨日のこと、今日のことは今日のこと。
グレオニー自身もこの感情に整理をつけられておらず、兎にも角にも刻々と進むこのいまの時間に手一杯であった。

そして再び視線を上げる。
回廊には彼の影が落ちる様子はない。
グレオニーは自分の想いと彼との関係と、様々な不安定で数え切れない事項に脳みそを沈ませ、何度目かわからない溜息をついた。

*

ごろごろと、雷を伴った雨雲の近づく音を衛士たちは聞く。
気付いた時には、大量の雨粒が地面を叩いていた。
わあわあと頭上に手をやり、走って訓練道具を倉へと押し込む。
何も今日に限ったことではない。
これは昨日と一昨日と……五日前から数えて五回目だ。

グレオニーが背中を丸めて溜息の回数を重ねている間に、とうに避難していた者たちは休憩所にて、口を揃えて言う。
やっぱりこうなった、と。

本日開催中であった市を訪れている人々も災難である。
後片付けに走る商人や同僚の姿を思い浮かべて、上司が怒鳴って呼びに来るまではここで待機と、彼らは決めていた。
ただでさえ、この天気で仕事が滞る部署が城内にはいくつもあって、そこに補修の仕事が追加で依頼されていた。
それも雨乞いの得意な彼をどうにかしなければ、まともにできたものではない。

勝手知ったるお前が行けと、一人の衛士が背中を押される。
彼はグレオニーと仲の良い衛士で、フェルツと言った。
フェルツ自身もグレオニーのことは、他の仲間よりも知っている自信があった。
しかし、どうにでもグレオニーの気を変えられるかといったら、そういうわけではない。

フェルツはこの雨の原因、グレオニーが悩んでいる事柄が、何かと知っていた。
知っていたからこそ、解決に導くことは難しいと思っていた。
五日連続の豪雨に衛士たちからは、揃いも揃って祈るような視線が送られる。
おそらく衛士以外でも、この雨をどうにか打開できる可能性がフェルツにあるのならば、手を組んで祈りを捧げるだろう。

フェルツは困った顔をしながらも、みなの期待を一身に背負って椅子から立ち上がった。

*

自ら呼んでおきながら、逃げることが適わなかったらしいグレオニーは、濡れ鼠で休憩所に姿を現す。
コートの裾を適当に絞ると、頭の中はまだ彼のことを気にして、隅っこの席に腰をつけた。

フェルツがグレオニーに声をかけると、わかりやすく肩を跳ねさせた。
寵愛者様が、と様子見にひとつ言って見せると、あからさまに動揺をみせる。
彼は尊い方であるにも関わらず自分にも優しいし、貴族貴族していないから自分も接しやすく、そもそも剣を振るうというためであって、全くそんな感情を持って会いたいだなんて思ってもいないし、この雨では城内にいるだろうからお見かけもしないだろうし、ああだこうだと、言いわけするようにつらつらとグレオニーの口から言葉が出てくる。

まだその一言を口にしただけだったが、自分の予想がずばり的中していることにフェルツはふうと息を吐く。
彼は本当にわかりやすい。
とにかく会いたいのだなということが、しっかりわかってしまった。
もういい、もういいとグレオニーを止める。

外はざあざあと強い雨足の音がしているが、いくらか前までは晴れていたのだ。
もしかしたら今日は顔を見せていない渦中の彼も、外にいて突然の大雨に降られて焦っているかもしれないとフェルツは思った。

聞くところによると、彼は休日以外は継承のための勉強や修練に使うため、部屋に籠って出てこないらしい。
唯一息抜きできる日に、わざわざこの訓練場に足を運んでグレオニーと話し込んでいるので、彼もグレオニーのことを好く思っているのは確かだ。

雨に降られてお身体を壊していなければ良いよな、とフェルツは窓の外を見やりながら言った。
同じく窓の外を確認して、グレオニーは顔を顰める。
自分のせいかもしれないと思うところはあるらしい。

その様子に、自分たちのためにもフィアカントのためにも、どうにか雨を止ませてくれないかとフェルツは思う。
しかし、そもそもグレオニーの感情が正負どちらに傾いても、雨は降る。
グレオニーに勝ち得る晴れ男、もしくは晴れ女がいなければ、たぶんこの大雨は続くのだ。

グレオニーに平穏が訪れるまではこの雨は大いに地に降り注ぎ、雨が降り止むまでは衛士たちには平穏がやってこないのであった。
送り出した衛士らから状況を窺う視線を向けられ、フェルツは芳しく無いと、ひらひら手を振る。
衛士たちは顔を見合わせ、溜息をついた。

*

土砂降りの中、ばしゃばしゃと泥を跳ねさせて一人の衛士が室内に転がり込んでくる。
きっとどこかで人手が足りなくなったのだ。
奥に座する者たちも、ゆるゆると重い腰をあげる。

雷光が暗い空に走る。
高く短い悲鳴がした。
その場に居たみなが今やってきたばかりの衛士のほうを見、外ではごろろと呻るような音が続く。

体躯の良い男衛士が上げる悲鳴にしては、あまりにも可愛らしく、というか、出せたらちょっと不気味なものだ。
声の主は注目を浴びた彼では無くて、隣に佇む小さな寵愛者だった。

伝令役の衛士がフードも被らずに来たのは、おそらくこの子供に貸したからであろう。
衛士規格の肩掛けフードが膝近くまで来ている。

お前に会いに来たんだって、と額からぼたぼたと落ちる水を拭う同僚から声をかけられ、グレオニーは硬直する。
期待していたはずの寵愛者の姿が、実際目の前にくると、どうして動いて良いのかわからない。

その動向を休憩所の衛士全員が見守ることになってしまうので、フェルツは伝令の彼にどこへ回れば良いのかと声を上げて尋ねた。
正門と中庭と、衛士はてきぱきと指示をする。
伝令が来たのにも関わらず、向かわなかったと知れれば、あとで上にこっぴどく絞られる。
駆け回らなくてはならないことを承知していた衛士らは、軽く身支度を整え、外へ飛び出していった。

幾人か、あれってと呟きかけたが、フェルツが休憩所の外に押し出した。
寵愛者様の護衛をちゃんとやっておけよ、と固まったまま動かない友人へ告げると、彼自身も雨の中を走って行った。

濡れて重いフードを頭から外しながら、子供はくしゃみをする。
それにようやく自意識の海から戻ってきたグレオニーは、慌てて休憩所の扉を閉めた。

その日は結局遅くまで大雨で、衛士たちは忙しく走り回ることになる。

*

次の日は、朝からアネキウスが天上によく輝いていた。

しかし、またグレオニーが溜息でもつくんじゃないか、と衛士はげっそりした顔で言った。
自分は中庭巡回真っ最中だったから、昨日は商人の天幕をいくつも畳んだと彼は語る。
言われた本人は、流石に六連続はおそらくたぶんきっとないと言い返す。

昨日以前とは打って変わって、グレオニーはからりと乾いて、湿り気が無い。
仕事に出るのにもなんだか気合いが入っている。
補修部品を手に取った、機嫌の良い雨男を見て、衛士たちはあれはあれで降りそうだと噂する。

何があったのかとぽかんと口を空ける衛士に、聞いていないのか？とにやついた表情で別の衛士が話し出そうとしたところを、そんなことよりさっさと後片付けだと、見かねたフェルツが話題を変える。

グレオニーが真新しい手袋をつけていることに気づいている者は、少しばかり居る。