うるわしのゆうわくしゃさま
ああ、もう、馬鹿だ。俺は馬鹿なんだ。こんなことしたってどうしようもないのに!
そもそもがおかしかった。寵愛者であるレハト様に、声をかけてもらったり試合を観に来てもらったりできること自体がおかしい。だって、こんなの全然釣り合わない。
レハト様の中で結論が決まっているのを聞くのが怖くって、答えを聞く前に、それどころか質問をする前に帰り道へと振り返った。大丈夫、今度は壁がない。

気にしないで!なんて、よく言えたもんだ。気にしないようにしなくちゃいけないのは、絶対俺のほうだ。

「待って」

呼びかけに俺の足が止まらないわけがなかった。その声にだって心臓が跳ねる。期待している、そう言って欲しい。
ほとんど反射的に振り向いた。

「グレオニーも、ね?」

まぶしい。両手を伸ばして俺を見上げるレハト様がまぶしい。かわいらしさが突き抜けている。
子供の大きさの温かい手を広げて、待ちの姿勢のレハト様。あの、俺もっていうのは、つまり……。ものすごく顔が熱い。

いやいや、どんなにレハト様がお望みであっても、さっき自分でいかがなものかって否定したばっかりだし!
抱きしめたい、本当は抱きしめたいけど。こんな魅力的な状況で抱きしめたくないなんて考えが持てるわけない。でも抱きしめるわけには、決して抱きしめるわけには。どう考えてもレハト様の評判に関わる。さっき自分でも言ったけど。そうだ、俺の気持ちがどうのこうのじゃないんだ。レハト様のことを考えて行動しろよ、俺は。
ああ、でも神官様とレハト様の関係が噂に聞くもので間違いなかったとしても、今俺のほうにいてくださってるんだよな。そうなんだよ、うん。引き止めてくれるってことは、つまり、俺のほうを、なんていうか俺のほうがっていう、そういうことのように思ってしまう。あー、駄目だ。そう考えると顔がすっごく緩む。奥歯噛んどかないと。
それにこうしてずっと両手を広げて待っているレハト様が愛らしい。こんな好意を踏みにじって良いわけもない。せっかく、せっかくのレハト様のお申し出を断るなんて、臣下失格じゃないのか。
そうこれは、臣下として、レハト様のおっしゃられた指示のままに動くだけで、それ以外はなんでもない。なんでもない……わけがない! レハト様は言外にどうぞって言ってるだけで、最終的な決定権は正しく俺にあって、俺が起こした行動なのは間違いないから!それを踏まえて、だ抱きしめるとか……言語道断。失礼極まりないし。
レハト様が俺もって言ったのは俺に気を遣ってくれたってことだ。レハト様は本当にお優しいから、お偉い方様方と俺たち平民関係なく平等に扱ってくださるみたいな、同情してくださるみたいな、そういうこと。
……それに本当に抱きしめたりでもしたら、レハト様の匂いだとかレハト様の身体の線の細さだとかレハト様の体温だとか諸々が、すぐ近くにあることになるわけで、それはもう絶対すごく駄目。

「……わかってくれないなあ」

ああだこうだとどうにもならない思考を一人繰り広げていたら、レハト様の小さな一言が聞こえた。あ、俺はいったいどれだけの時間、放ったままでいたんだ……。呆れられてもおかしくなくて、唇を尖らすレハト様の表情に再び思考の渦へと落ちそうになる。しかし、腹回りにぶつかったレハト様の頭の感覚によって、それは中断される。というか他の何も考えられない。

レハト様が俺に抱きついてる。
さっきまでの不機嫌な顔をまるっきりどこかにやってしまっていた。ぐるりと回された腕は、俺の背中で一周するほどまでには届かない。
動けない。動きたくない。動かせない。
想像のはるか上をいく現実味のある感触に、意識が飛びそうだ。
レハト様ってこんな感じなんだなって、ざっくりした感想しか出てこなかった。

「グレオニー背高いんだもん。届かないからしゃがんでほしかったのになあ」

全然しゃがんでくれないから待てなくって来ちゃったと、レハト様がころころ笑う。ゼロ距離からの囁きと楽しげな表情にぞわぞわする。おかしくなりそう。

「悔しくなくなった?」

にっこりと百点満点の笑顔と、それに付随する小首を傾げる仕草に、振れるだけ首を振って返事をする。悔しいとか悔しくないとか、もう訳がわからない。

「じゃあティントアのところ行ってくるからばいばい、またね」

一瞬だけのぬくもりと甘い香りが、ふわりと遠のく。
翻るレハト様の服の裾が、この世の物じゃないような錯覚に陥る。軽い足取りが回廊の石床を踏んだ跡に、花でも咲くような気さえした。夢心地だった。

いろんなことでいっぱいいっぱいすぎて、倒れそうだ。
レハト様の姿が見えなくなったところで急に全身の力が抜けて、ふらふらっと廊下の壁に頭を強かにぶつけた。じんと痛みが広がる。ああ、幸せだ。