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ふあ、と大きく口を開けてレハトがあくびをする。訓練に来たと言うのだけど、なんだか手つきも足取りもふわふわとして危ないので、早々に休憩と称して椅子に座らせた。
調子が悪いのかと問えば、ふるふると首を左右に振って大丈夫だと言う。
それからまたあくび、をしようとして、ごくんと飲み込んだ。うーん、単純に寝不足か?

「ちょっと寝付けなかったんだけど……でも寝た。大丈夫。訓練しよう!」

唐突な大声はどう考えても空元気。今日の訓練は切り上げだ。疲れているときの無理はいけない。ちらと以前の光景が頭の中を過ぎる。
あれ以来、直接の合わせは一切していないのだけど、本当にもう怪我なんてさせたくない。させられない。

自分の配慮の足りなさによる嫌な思い出を起こしつつ、目の前の頭に手のひらをそっと乗せてなだめる。やっぱり前のこともあるのだし、休んだ方が良い。部屋まで送るし。

「訓練できるときは、しなきゃ勿体ないよ。別にさ、グレオニーと戦うわけじゃないし。俺一人だから問題ないでしょう?」

甘めの進言ではとても動くつもりは無いらしく、レハトはすぐに言い返してくる。
もちろんレハトに課せられた期間の短さは知っているけれど、根詰め過ぎて頑張りを台無しにしても駄目だ。

「じゃあいま休んでく。休憩長めにとる」

二度目の説得虚しく、間髪を入れないで答えが飛んでくる。
今のレハトに必要な休息は睡眠であって、訓練途中の一時的な休みでは補いきれるものじゃない。……俺が話している間にもゆっくりまぶた落ちてきてるから。
自分の口が動いていないときは集中力が持たないんだろう。なにもそこまで耐えることもないのに。

「……でも」

レハトは一度俯いて、ぱしぱし瞬きを繰り返す。それから上目づかいに見上げられる。

「訓練場じゃないとグレオニーと一緒にいられないから部屋帰るのやだ。どうしても、駄目?」

うっかり駄目じゃないって言いそうになった。かなり危なかった。

俺と一緒がいいからって、一生懸命我慢してたっていうことで。上目づかいの仕草も、そういう発想もかわいい、とても。少し頬が緩む。しかし、うかうか幸せに浸っている場合じゃない。
呼吸をひとつふたつして、レハトに向き直る。

そりゃあ俺もレハトと一緒にいられるのは、……訓練できるのは嬉しい。俺が教えることでレハトの剣が上達するのとか、レハトが喜んでくれるのとかを見るのも楽しい。でも今こんなにぎりぎりの状態のレハトにとても剣は握らせられない。

あんなふうに言われてしまっては、なかなかレハトの意見を否定もしにくかったけれど、とにかく駄目。
レハトは不服そうに口をとがらす。

「いじわる……」

その一言を最後に、レハトは地面を向いて黙ってしまう。
表情から彼の機嫌が読み取れなくなると少し不安だ。そんなに意地の悪いことをしたつもりではないんだけど。
様子を探りつつレハトを見つめていると、急にぐらりと前に倒れそうになって、すぐに止まってずるずる後ろに戻る。……寝てる。

舟を漕ぎだしたレハトの肩を叩く。ほら、やっぱりこうなるんだから。部屋に帰らせなくては。
手を取って、立てるか?と尋ねれば、肯定とも否定とも取れない不明瞭な返事がする。
うーん、動けなさそうだ。もっとはやく切り上げればよかった。

小さな手のひらが俺の指を掴んで引っ張る。グレオニー、と呼ぶ声をもっとしっかり聞き取れるようにしゃがんだ。

「立てない。から、持っていって」

ふわりと彼の両手が、俺の首の後ろへ回った。椅子からずるずると落ちるようにそのままこちらへ全身を預ける。そこから再び喋らなくなる。寝たらしい。
ええっと、これは、その、ちょっと、近すぎる。

耳にかかる柔らかい息がくすぐったいし、寄りかかられてる身体があったかいし、心臓の音が聞こえるし。俺の精神的にあんまりよろしくない。
距離を置こうにも置けない。動いたらレハト地面に落としちゃうし。
レハト、と小声で呼んでみても本気で眠っているみたいで、反応のひとつも返してくれない。
それならそれで、この体勢は嫌じゃないっていうか……。あ、いや、ここ訓練場だった。後ろに人いるから、やっぱり駄目だな、うん。

えーと、「持っていって」っていうのはレハトを運ぶということで良いんだろうか。運ぶとなると、こう、抱きかかえて部屋に連れて行くことになるんだろうけど。候補者様を抱えて運ぶなんてどう考えても不敬の極まり。レハトの評判にも関わるから、絶対まずい。
できたら起きてもらいたいところ。
肩口ですやすやと穏やかな寝息が聞こえる。起こせない、よなあ。やっぱり。

そっとレハトを持ち上げて、椅子に凭れ掛けさせてみる。力の入っていない身体がぎりぎりのバランスで引っかかっている感じだ。落ちそう。
姿勢を色々変えてみるけど安定しない。……いまちょっと思ったんだけどもしかして触りすぎな気もしてきた。い、一旦、止めとこう。

抱えて運ぶのも、眠ったまま放っておくのも良くないのはわかっているんだけど、代替案が出てこない。どうすれば良いものかと考えていたら、背後から呆れ声が投げられた。

「あのねえ、グレちゃん。ワガママ言ってる子供くらいさっさと起こしなよ」

うわっ、なんでハイラ。別に約束とか特に何もして無かったよな?
ハイラはカツカツと足音を立てこちらに近づいてきて、勢いそのままにレハトの肩に手を掛けようとするから慌てて掴んだ。危ない。

「……なんでってフェルツが居ないから、じゃんけんで負けた私が来たに決まってんでしょうが」

不機嫌そうに眉間に皺が寄っている。俺がそんな態度を取られる理由なんてなくないか。というか、別に来るように頼んでないんだからほっといてくれたら……。

「寵愛者様と仲良くやってるのは、そりゃグレちゃんにとっては楽しいんだろうけどねえ。周りの目を少しは考えたらどう?」

俺が掴んだ手首を睨み、それから大きな溜息を吐く。

「寵愛者様に御印がある限り特別な人間なんだから。衛士が仕えるにしても、貴族の渦中に置いておく人形さんにしても。過度な干渉は良く思われないってこと、わかってんでしょ。グレちゃんは寵愛者様のご厚意に甘えすぎってわけ、訓練場の中だけでも面白く思ってない奴は多いの。最近の浮かれたグレちゃんの視界には入ってこないのかね?」

ずらずら全く反論できない正論を述べられて、唖然とする。……言われれば、確かに視界に入ってないのかもしれない。

「要は何いちゃついてんのって話。わかったら、はい。離した離した」

ハイラは急にいつもの軽い調子に戻して、俺の手を振り払うと椅子に凭れたレハトの肩を揺さぶる。ちょっとやそっとや起きない心づもりなのか、レハトは反応が鈍い。

「起きないもんだね。すっかり気ぃ抜いちゃって。ほら起きなよ、寵愛者さん」

今度はぐしゃぐしゃ髪の毛をかき回しつつ声をかけるので慌てて制止させる。
そういうことするからさっきだって止めたっていうのに、そんな雑に扱うなよ!

「こうでもしなきゃ起きないんだから仕方ないでしょうよ。グレちゃんがさっさと部屋まで持って運んだ方が平和的だったと私は思うよ。はい、ご機嫌ななめでご起床おはようございます、寵愛者様」

一瞬でも抱いて運ぼうなんて考えたことが見透かされていたことに背筋が凍る。
ど、どうしてわかったんだ。そうハイラに問いただす前に、流石に頭を揺さぶられるのは不快だったみたいでようやくレハトが起きる。
目元を擦って起こした相手を確認したあと、さらに嫌そうな顔してる。

俺もハイラにはものすごく腹が立つんだけど、結果的に、起きてもらうっていう一番良い案になったのは確かだった。

煙たいとばかりに手を振りながらハイラは、改めて部屋に戻るようにレハトに言う。なんでそういう態度をとれるんだ本当に。
レハトは何か言おうと口を開いたけれども、寝起きでうまく頭が回らないっていうのもあって、反撃ができないみたいだった。

「帰れば良いんでしょ!」

結局、精一杯に睨みつけてそう返していた。
ハイラの馬鹿!と直球の悪口を残して勢いよく立ち上がると、俺のコートの袖口を掴んで訓練場を突っ切る。まさに捨て台詞。
憤慨した態度のまま、ずんずんと歩を進めるレハトに引っ張られながら、抵抗できないなあと思った。
本当は、ハイラの言う通りに、こうしてるのだって悪目立ちしてるに違いない。甘えきっている。それでも距離をおくための線引きを、レハトが求めていないのならしたくない。それが俺の本心だった。

「ほんっとうに、ハイラ!あんな起こし方はないよね!」

俺のほうを振り仰ぎながら頬膨らませて彼は愚痴を吐く。大きく同意の意を示して頷いていたら、何もないところでレハトがつまづいた。あっと思ったときにはもう手が出てて、地面と衝突する前に抱え上げる。
ああもう、寝てないとこういうことに出るんだから。

すぐに下ろしたけど、いまのは絶対注目浴びてた。でもそうしないと怪我をさせてかもしれない。
それに、小さな擦り傷もなかったレハトがありがとうって笑ったから、うん、大丈夫。
これで正解。