窓の向こう
神様のお話についてレハト様はご興味が無いのだそうで。俺だって詳しいわけではないし、昔よりまだ覚えるようになったくらいなんだけど。聖書のどの節をお聞かせしてもレハト様は、はじめて聞いたと仰る。額に御印を掲げられていてもそういうものなのか、と意外に思ったこともある。
窓の外を見つめて、レハト様が、神様の恵みだっていうのは覚えたよと呟く。
石壁に覆われた小奇麗な部屋は静かで、聞こえるのは本当に、彼女の腰掛ける寝台の布の擦れる音と、湖に落ちる弱い雫の音だけだった。何ということもなく、同じところへ視線を向けた。灰色の空に途切れ途切れの直線が降っている。
ぎ、と寝台を軋ませて、レハト様は立ち上がる。やわらかく細い髪の毛が肩から滑り落ちて揺れる。良いなと思う。
木枠に手をついて、しとしとと雨降りの音を聞く。外は朝からずっと代わり映えのしない風景だ。暇にさせてしまっただろうか。今日の雨もやっぱり俺が降らせた雨だったりするんだろうか。
子供のときの可愛らしさがそのまま残った瞳は、時折まばたきをするだけで、景色を眺めているわけではなさそうだった。心ここに在らず。 何のことを考えているんだろう。誰のことを考えているんだろう。
こうして彼女の隣に立っていられるようになっても、彼女の全部は知らない。温かな体温が感じられるこの距離で一生懸命目を凝らしても、彼女の心は見透かせない。
憧ればかりが大きく積もる。
花が育つ。
唐突な独り言を言うあどけない瞳の見つめている先を、俺はまだ探せていない。
レハト様の故郷は農耕を主としていた村なのだと聞いたことがあった。黄色の花が一面に咲く村だと。
俺は村で育って、成人とほとんど同時に城に徴用になったから、自分の故郷と全然違う風景がいまいち想像できなかった。無理なことはわかっていたが、いつか見てみたいと、誰に言うわけでもなくひっそりと思っていた。
風に吹かれ、鮮やかに咲く黄色い花畑に彼女が佇む空想をする。似合わないわけが無い。
グレオニーが居たらみんなに有難がられたかもしれないねと、こちらを振り仰ぐ彼女は笑っていた。
いや、俺もそんな魔術師でもないのでそんな自由に操れるわけではないのですが。
冗談を言っている、はずだった。
不意にレハト様の顔が歪む。あ、と思ったときにはこちらの胸の中に倒れ込んで来ていた。ぐ、と額の徴を押し付けるようにレハト様が俺へ体重をかける。なるだけそうっと、本当にそっと、背中に手を回す。
昔はこれが好きじゃなかったと、彼女は囁いた。雨音にかき消されてしまいそうな声量に心臓が高鳴る。
何かを押し込めるように、噛みしめるように、衛士コートをぐしゃと握り締められる。
レハト様のつむじを見つめて、彼女が動くのを待っていた。動かないままならば、きっとそれがレハト様が望んでいることだ。
静寂が増した部屋の中で、先程の思考回路が軽率だったように思えて落ち込んだ。俺の知り得る故郷と、彼女の知り得る故郷には大きな概念の乖離があるに違いなかった。
彼女の抱える痛みはここにはない。時間も場所も性別も、その頃とは全く変わってしまっていた。やっぱり俺は貴方のことをよくを知らない。
特別じゃない人に生まれたかったの。
どれくらいじっとしていただろう。彼女の声で現実に戻ってくる。
腕の中でレハト様がぐるりと回る。今度は彼女の肩と後ろ頭が、俺の胸にくっついた。
伏すように下を向いた長い睫毛が綺麗に整っている。震えているわけじゃなくて、ちょっとだけほっとする。
レハト様はひとつ大きく深呼吸をして、今は特別なのも好きになれた、と言う。
声色は明るかった。
俺が安心するための確証が欲しくて、レハト様の顔を覗き込む。あ。
胸に痛みが走る。
虚勢を張っているだけだと思い知らされる。
泣かないでください。
咄嗟に口に出してしまったけれど、自分でも馬鹿だなと思った。涙を止める術も笑わせる術も知らないのに、わがままな言い分だった。まして一介の側付きごときが言えた台詞じゃなかった。
レハト様はきょとんとした顔で、少し首をひねって、考えるそぶりをして、……うーんと泣いてないよ?と改めて首を傾げた。
泣きそうに見えた、っていうのが正しかった。彼女が無理をしているような気がして、急に不安になった。全部俺の思い込みなんだけど。
レハト様は一言も、生きている今この瞬間が怖い、だなんて言っていない。
それでも、城に来る前のことをあんなふうに話す声を俺は知ってしまった。
知りたい。レハト様と同じ景色も感覚も知ることはできないけれど、レハト様が抱える感情を俺はもっと知りたい。俺はあなたの側にいて、あなたの抱える感情を分けて欲しい。
目の前のこの人の手に触れる。俺のほうが随分熱かった。
細い指がゆっくり動いて、俺の指と指の間に入り込む。お互いに全部をくっつけて握り締めた。
ありがとう、と先程と同じように囁かれた。秘め事のようだと思った。
それからレハト様は、でもね、今はね本当にね、とはしゃぐように続ける。
神様に愛してもらえる印と、神様に愛してもらえる雨はきっとお似合いの証だから。これも、すき。
なんて、笑ってみせる。俺がどうしようもなく好きな、レハト様の顔だった。
アネキウス様。 俺は、愛されて幸せです。