単純なこと
今日は天気が良かった。
このまま彼に悟られぬように行かなければ。なにせ彼は雨を呼ぶ。

廊下を進んで回廊を渡って、高い金属音が聞こえたところで中庭を見下ろした。背の高い、暗い赤の髪色を確認して、僕の足は自然と速くなる。
二つ三つジャンプしただけで階段を下り終えてしまって、踊り場の手すりを押し返す反動で右足を軸にくるりと回りながら次の階へ。
途中の廊下で、眉をひそめたどこかの貴族に咳ばらいをされた。僕はなんとなく崩れた襟元を直すフリをして、彼に会釈を返して見せるのだけど、ああ、気が逸る。
また跳んでしまいそうだ。

訓練場を見回して、鍛錬に励む衛士たちの奥のほうに目当ての姿を見つけた。
見慣れた背中は友人と合わせを始めるところのようで、僕はグレオニーの友人と先に目が合った。
ばちばちと瞬き。僕らは無言で意思を伝え合えるほど高度な関係性にはないが、僕が訓練場に足を向けるたった一つの絶対的理由を彼の友人は知っていた。
そのまま彼の友人はグレオニーへ喋りかけて、僕へ手を差し向けて、グレオニーは抜きかけていた剣を鞘に戻し振り返る。

瞬間的に目線がかち合う。
会いたかったと満面の微笑みを返すとグレオニーは少しだけ目を開く。すぐに目は細まり、ゆるゆると口元に弧を描く。彼の友人方の言葉を借りるならば、だらしのない顔、しまりのない顔。

頬にじんわり熱が集まる。僕も彼も。先程から余所行き用の綺麗な笑顔を作っていたが、もう駄目だ。グレオニーと同じ顔をしてしまっているに違いなかった。
急ぎ駆け寄ってきてくれる土を蹴る音が、腰から下げた剣の吊具の弾む音が嬉しそうで、僕も嬉しかった。

「こんにちは、レハト様。これからお散歩ですか?」

ふ、と呼吸を整える息を短く吐きだして、人懐こい聞き心地の良い声が訊ねる。
少し早い鼓動を抑えるように胸に手を当て、同じ目線になるように膝をついてくれる。

鍛錬用の丈夫で動きやすい格好ではなかったから、散歩に行くと判断されたようだった。
彼の言葉を肯定すれば、グレオニーは少し残念そうに苦く笑って頭をかいた。

「そうですよね。……えーと、お出かけ前にこんなところへなにかご用が?」

すっと熱の引いた声に、慌てた。数秒前の温かい空気が突然霧散した。
まさか今の返事だけでグレオニーがこんなに気落ちするとは思わなかった。ぎこちない笑みに、僕とグレオニーの間を隔てる壁がハイスピードで建設されていくのを感じる。そんな顔をさせたくて来たわけはないのに。

堂々と偽りのない理由を言わなくてはならない。僕が一番したいことをしなくては。
僕は、グレオニーを散歩に誘うために来たと告げた。
途端グレオニーは驚きに目を見開く。

「え、俺とお散歩ですか? あ、や、嬉しい!すごく嬉しいです! じゃなくて、じゃないですよね!」

首から頬から耳から、グレオニーの露出している肌が一気に染まった。紅潮する。高揚する。
見ている僕も、僕らのまとう空気さえもつられて朱色になる。
隠さないのか隠せないのか、ただただ彼から溢れた喜びの感情を一身に受けてどきどきする。急下降からの急上昇という落差があるぶん、より熱く感じる気がした。

「……ええと、護衛でしょうか、そうですよね? 城内だっていっても中庭は人多くないですもんね。 あれ、いつもの方々はいないんですか。あ、いやいや、一つの仕事に集中できる方が効率もいいし、使用人は一人でも多いほうが役に立ちますよね。それに専門職である方が安心する、と思いますし」

饒舌にまくし立てる唇はきっと自分に言い聞かせている。
数回の早いまばたきのあと、グレオニーは握りこぶしをつくって、考え込む仕草のために顎に添えた。

「……その、俺のところに来てくれた理由って、そういうことでいいんですよね」

少し思案を巡らせたあと、視線だけがこちらに向けられる。

歯切れの悪い言葉とは裏腹に、僕を見据える赤い瞳は真っ直ぐに美しい。あたかも重大な決断でも下したかのような深さがあった。
……もしかしたら彼にとっては、これは一世一代の重要な問いなのかもしれない。
火照った頬の初々しさと、真摯な心をそのまま映す瞳の情熱との、狭間にいる彼に吸い込まれそうだと思う。

「本当はお邪魔でしたか?」

吸引力のある赤色と対決していると、僕の無言を否定と捉えたのか不安気にくしゃりと潰れた。

そうじゃないんだ、そうじゃない。

でも、見惚れてしまっていた、なんて言ったら、どんな顔をするんだろう。気にならないわけでもなくって。
どうしようとふらり思考が揺らぐ。ややこしくしたって仕方ないのに顔をのぞかせる悪戯心。そっと蓋をしなければ。
ふるふると首を横に振った。そうだ、違うってことを伝えなければ。もっと大事なことも伝えなければ。

グレオニーが並べ立てた理由を一つずつ丁寧に潰してしまうので、細かいことはあんまり言う気になれなかった。ただ、護衛が欲しいわけでも、一人が危ないなんてことも、人手が欲しいわけでも、衛士ならば誰でも良かったわけでもない。

一緒に来てほしい。グレオニーがいい。

さっきのグレオニーの態度に引きずられて、真面目な声色で答えを返す。

「っぐ……」

堪えきれずにこぼれた呻き声。
一瞬ひきつった笑みが浮かんだかと思ったら、グレオニーは大きな手のひらで顔を隠してしまった。赤い。赤い。

「そういうことは、もっと、真剣な場面で……俺を散歩に誘う文句なんかに使う、ものじゃ……ない、ですよ」

手の甲越しの息も絶え絶えの返事だった。先にそういうことをしたのは彼のほうだというのに。
指摘されて妙に気恥ずかしくなりながら、きっとこの先も、こんな言葉を向けるのはグレオニーだけだろうと思った。

擦り切れそうな手袋から伸びた浅黒く長い指が、縮こまっては広がって、広がっては縮こまって、所在なさげに動く。常に剣を握る準備をしているから、僕は彼が手袋を外しているのを見たことが無かった。
だんだん落ち着いてきたようで、グレオニーは顔全部を覆っていた手のひらをずるずると口元まで引っ張ってきて、握り直す。
大きく長い、脈を平常に戻すための呼吸をする。

「ありがとうございます。では、ぜひ、ご同行させてください」

手袋のガードがはがれた顔は相変わらず真っ赤だったし、相変わらず真っ直ぐな目だった。

グレオニーが居なくては意味が無いのだから、それ以外の選択はない。僕は首をわざと大きく縦に振ってみせた。
寵愛者らしい荘厳さなんてとっくになくないのに今更も良いところな身振り。
ただグレオニーと同じように、真正面の気持ちを表明したいだけだった。

待っていると告げて踵を返し、駆け出した。早い別れは、早い再会に繋がる。
踏み出す一歩が大きくなる。

後ろから、はい!と気持ちのいい返事がした。
とん、と回廊の石を踏んで彼を振り向けば、訓練場中に響いたよく通る声のせいで無駄に衛士の視線を集めていた。しまった、とばかりに顔を凍らせたグレオニーを柱の陰からのぞく。
まだ僕のことを見つけていない衛士に悟られる前に、僕は飛ぶように逃げ出した。

息を上げて、中庭の椅子に転がるように座り込んだ。ふうふうと息を整えて、さっきを思い出して笑いが込みあげてくる。
陽だまりの下もいいものだ。