寵愛者の説得に必要な三つ
中庭の茂みに隠れ、息を潜める。結構な距離を走って来た。
僕が庭を遁走することは、ローニカにもサニャにもすっかり判られてしまっている。

城の中庭は範囲が広いとはいえ、一か所に留まっているのは上策とは言えない。
わざと使用人に挨拶を振り前いておき、すぐに次の場所へと移動だ。
あとは彼らが勝手に、聞き込みにまわるローニカたちに、どこそこで僕を見かけたという的外れな情報を撒いてくれるだろうから。

細めの枝葉を頭の上へ寄せて絡める。もう十分に側索の手は撹乱させた。しばらくは人気の少ない場所で弾んだ呼吸を整え整え待機だ。
以前ヴァイルもこんな真似をしていた。彼は僕よりずっと側付きも多いから逃げおおせるのも難しいに違いない。

そんなことをぼんやり考えているとがさりと茂みが鳴る。
鳥や猫のような小さな生き物じゃない。人だ。

行き過ぎるのを待っていても、擦れる葉の音はひっきりなしに聞こえて、足音はなかなか立ち去らない。
やけにこの近辺に拘るのは落し物だろうか。僕の上方を覆う葉も開けられたら、ちょっと気まずいかもしれない。
そうなる前に撤退するのが良い。さっさと顔を出したあとに場所を変えてしまおう。

普通茂みから突然出てくるのは不自然極まりないが、葉をかき分けているから、丁度その音に紛れられそうだ。
膝を折りたたんだまま、茂みの鳴る方向と反対側へ踏み出して、さりげなく立ち上がろう。そして去ろう。
手順を確認して、数歩進む。

「レハト様! ああ、良かった。見失ったかと思いました」

とても聞き覚えのある声なので、振り返りたくない。
しかしながら、勢い走り去れる体力は残っていない。名指しで見つかってしまっては、こそこそ後退もできない。
嫌々ながらも後ろを振り仰げば、思った通りの声の主だった。グレオニーはこちらへと駆け寄ってくる。
見失ったと思っただなんて、いったいどこから目星をつけられていたのか。

「見つけたのは、ついさっきです。レハト様が逃げてしまわれるんじゃないかと思って、足が止まったらお声かけにいこうとしてたんですけど。ちゃんと追いかけているつもりだったのに、お姿が見えなくなったから焦ってしまいましたよ」

うずくまったまま動かなかったらうまくやり過ごせていたようだ。失敗だった。
そう答えれば、じゃあ俺は運が良かったですねと、グレオニーはほっとしたというように笑って見せた。しかし、すぐに困った表情に変える。

「俺が来た理由、おわかりですよね?先生がお待ちですよ」

そのまましゃがんで僕のほうへ手を差し出す。
もちろん、僕はその手を取るわけにはいかない。図書室へと連行されるなんてまっぴらごめんだ。なんのためにここまで走り回って来たのか。
他の科目ならいざ知らず、文字の勉強だけはどうしてもやりたくない。

「えーとですね、そうなるんじゃないかって、一応ローニカさんとサニャちゃんから伝言を預かってきてるんですよ」

首を振って拒否の態度をとる僕に対して、グレオニーは少し楽しげだ。
僕を動かす何か特別な策を伝授されてきたというのか。
いや、そうだとしても、予見ができるような様子を見せたグレオニーの負けだ。不意打ちであるから効果が生まれるのであり、身構えておけばどんなものが提示されたって冷静に対処できるものだ。

「ローニカさんからは、朝の分のお勉強が終わったら本日のおやつはワッフルですって聞いてきましたよ。それからサニャちゃんからは、衣裳部屋のほうで頼まれていたお召し物ができあがりましたって」

これは、……困った。勉強に向かわなかったら罰がある系統のじゃなくて、ちゃんとやったらご褒美のやつだ。
当然ながらどちらも僕が心待ちにしているといっても過言ではないもの。
わかりやすい餌なのだけど、ぐらぐらと気持ちが揺らいでしまう。さすが僕の側付き、扱いを心得ている。
唸りつつ悩んでいれば、グレオニーは駄目押しに続けてくる。

「今戻ったら、ローニカさんも怒ったりしませんよ。お勉強大変なのは俺もわかります。でも席についてるだけでも違いますし、難しいときは聞き流しても良いものですから」

宥めるような口調の、少し的外れなグレオニーなりのフォローに笑ってしまう。
聞き流すのって、文机に向かっている意味がないんじゃないだろうか。
もしかして、グレオニーも先輩の小難しい話は聞き流したりするんだろうか。

「えー……たまには。はは、他言しないでくださるとありがたいんですけど」

苦笑いで答えたグレオニーがそう言うのだったら、いいかもしれない。指導してくれる文官に何か言われたらグレオニーのせいにしておこう。
それで今日のおやつと僕の衣裳が早く来てくれるのなら、図書室へ足を運ぶことを考えなくもない。

黙ってずっとこちらへ伸ばしたままのグレオニーの手を取って立ち上がる。

「では、城内に戻りましょうか。お送り致しますので」

グレオニーはそれにようやく全部が安心したらしくて、大きく息を吐く。
そんな大きなため息をするなんて。迷惑であることには違いなかったろうけれど。

先に歩き出すグレオニーに、僕はまだ戻るとは一言も口にしていないことを告げる。
ローニカとサニャの言伝だけで、心変わりをすると思っているのなら、グレオニーは少々詰めが甘い。

「へ。お戻りになられる気にはまだ、なってなかったってことでしょうか?」

恐る恐る尋ねる声色に堂々と頷いてみせれば、途端に焦る。
グレオニーだって僕を探しに来たのなら、なにか算段があって来たのだろう。それに今や僕の側付きなのだから、ローニカやサニャのように僕を連れ出す最適な方法をわかってしまっているだろう。グレオニーにあれを出されては中に戻らざるを得ないなあ。我ながら、なんてわかりやすい、わかりやすい!

大袈裟に振る舞ってみせると、グレオニーはぱたぱたと自分のコートや衛士服を叩く。ひとしきり探してみたあと、俺、なにかレハト様のご興味を惹けるようなもの持ってましたっけ?とのことなので、仕方ない。教えてあげよう。

僕が新しい衣裳を纏った姿をどうしても見たい、と言ってくれれば良いのだ。
好いている人に自分の素敵な姿を目に入れたいと懇願されてしまっては、僕だって動かないわけにもいかない。
グレオニーは呆気に口を開く。しかしそれもすぐに結ばれた。

「……それ、言えば良いんですね?」

先程と同じように頷けば、グレオニーはいくらか迷ったあと、改まった仕草で僕の目の前に屈む。
一度息を吐いてから、ついさっき衣裳部屋を訪ねて来たのだと言う。僕が居るんじゃないかと思って、寄ってみたのだそうだ。

「そのとき、少し見せてもらったんです。衣裳。それで、俺は服装とかそういう方面って疎いんですけれども、あの衣裳をレハト様がお召しになられたら、すごく似合うんだろうなって思ったんです」

グレオニーは視線を、僕の袖口、腕、肩と、思い返しているのか順々にずらす。
それから、まじまじと真正面に向き直る。

「本当に、お綺麗になられるんだろうなって……。お召しになったところを、是非、拝見致したいと、そう思っていますので。……お戻りいただけますか?」

ちょっとばかり頬を染めたグレオニーからの問いに、僕は満足してにっこりと笑顔を返す。
グレオニーにそう言われるのならば了承する他はない。そんなに待ち遠しく思われているのならば、早々に衣裳部屋に行かなければならない。うん、そうしよう。

僕が駆け出そうとすれば慌てて止められて、今は図書室ですからね?と言い渡してくる。
止めるということは実際のところは見たいと思っていないのか。

「そんなわけないじゃないですか! あ、いや、だからって今すぐ衣裳部屋に向かうってのは、ご勘弁を。戻るのは城の中で、向かわれるのは図書室で。でも見たくないとか、決してそんなことはありませんから。あとで! あとの楽しみにさせておいて下さい」

つらつらと並ぶ言葉には僕を勉強に向かわせたい意思が強く滲んでいるような気がする。
言い訳っぽく聞こえる。

わざとらしく不機嫌にしてみれば、本心なんですが……と情けない声が言って、グレオニーはがくりと肩を落とす。あまりにも瞬間的に落ち込んだのでびっくりした。
急いで訂正をしておく。
不安げな表情のまま顔を上げたところをなだめ、僕はようやくグレオニーに護衛の本分を発揮してもらうこととする。

朝から予定されていた読み書きの勉強は、大幅に時間を食ったから残りも僅かだ。
本当は一瞬も参加しなくてもいい計画のつもりではあったが、それを過ぎたらあとの科目はそんなに嫌いじゃないから、良いことにしておこう。

甘いおやつに、華やかな衣裳に、それからもう一つ。
どうやら今日も僕は幸せに一日を過ごせそうだ。