しにおくれる
残さなければならない。飾り気のない短剣の身を抜く。手のひらほどの長さの薄い刃が、しゅるりと音を立てた。
木で作られた持ち手を握り直す。
はじめてではないけれども、痛いものは痛い。二、三度深呼吸をする。
どくどくと心臓から流れる血の音が耳につく。なかなか落ちつけそうにない。
もういっそ気持ちは昂らせたままのほうがいいかもしれない。てっぺんにまで高めてしまえば、痛さも感じないかもしれない。
そう思い直して、目を閉じる。
あの日のじりじりした暑さだ。からからに乾いた地面。
少し気怠い気分だった。囁いたお前の覚悟など、どうせあっさり踏みにじれるのだ。
進行の声に、ざわめく音が一気に引いて、お前と私だけの空間になって、一撃目。
真正面から同じタイミングで同じところへ剣を差し込む。
高い金属の音が響いて、ぐっと柄を手元に引き寄せて、鍔がぶつかって、そのまま押された。
後ろへ少しだけ下がって間合いを取るつもりだったのが、左手の小指に力が入りきらない。
剣を受け止める力は全部右手に任せてしまって、それからまた次の手に。
そう思っていたのに、右手では耐えられなかったわけだ。もしかしたら両手でも結局駄目だったかもしれない。
踏みとどまれない両足は地面から離れる。ぎりぎり踵が着いてはいたけれど、そのまま私は後ろへ倒れてゆく。
空が遠くなる、眩しく刃が揺れる、ゆっくりとだ。
地面に背が付いたあとは、一瞬だった。
重さ、冷たさ、熱さ、痛さ、ひとつひとつを十分に噛みしめたわけではないのに、ひとつひとつがはっきりとした感覚で脳に焼き付く。
そのときのお前はどんな顔をしていたのかな。
覚えていないのか見ていないのか、さっぱり景色が浮かび上がらない。
触れた感覚はしっかりわかっているのに、最後に見えた風景は晴れた空ばっかりだ。
私に届かせたお前の想いの最高潮はきっとそこだったに違いないのに、私はなんて惜しいことをしたんだろう。
目を開ける。少し体温が上がった気がする。今ならいけそうだ。
あの感覚をもう一度、記憶の中だけじゃなくもう一度。
左肩へ刃を乗せて、金属の冷えた身が触れたのを確認して、お前の剣を受け止めたときと同じ強さで、力を込める。
僅かに肉に押し入っただけで激しい痛みに襲われる。熱い液体が溢れる。ああ、痛い。自分でやるとこうなるからいけない、意識も飛べないくらいの中途半端な加減をしてしまうのだ。あの時の、と想定してもうまくできない。
短剣をほうり投げる。絨毯で跳ねて、鈍い音が吸われた。
寝台の掛け布を引っ張って、重ねた傷口に押し付ける。繊維を走るように赤い色が広がる。
うめき声が歯の隙間からこぼれた。痛みに対しての限界を訴えている。左肩全部をどこかにやってしまいたいくらいだ。
不審に思ったであろう侍従が、扉越しに私へ声をかける。
申し訳ないが助けてくれ。やっぱり痛いんだ。
慌てて開かれる入り口から側付きが入ってきて、こちらの状況がわかるや否や恐怖の表情をする。そんな顔をしなくても良いのに。
止血されて、包帯が巻かれた。ようやく落ち着いても寝台に寝かされて、側付きが隣で強張ったままの顔をしている。
不安がらなくたっていい。しばらくはやらない。痛いし、体力も使うんだから。
別に死にたいわけじゃないんだ。痛みを感じたいわけでもない。
ただ、必要があるのだ。私がこのさき、生きていくにあたって、彼が生きていた証を残しておく必要が。
彼は最期に私の望みを叶えてくれた。
お返しに、想い人が最期に望んだことを叶えてあげようとするなんて、健気なものだろう。
そろそろと、左肩へ伸ばす右手を、侍従に止められた。
泣きそうな顔だ。怯えた顔だ。
こんなに私の目はよく見えるのに、本当にどうしてあの日のお前の顔だけは知らないんだろう。
やんわりとそれを振り払って、布の巻かれた傷口へ指を置く。焼けそうに痛い。熱い。
もう一度手を取られて寝台の上へ戻される。もう大丈夫だ、確認したから。
震えながら、こちらを睨むその顔は怒っているんだろうね、たぶん。
今はもうお前は居ないのだから、お前の首が斬り落とされる前のあの言葉が、私とお前の関わりの全てだ。
あれだけが、今の私がお前に執着する全部だ。
お前と私の間にひとつだけ。目に見える形でたったこれだけ。
私はちゃんと残しておくよ。