水の匂い
昨夜は長く長く雨が降っていた。
王城に落ちる雨粒は、全て湖に貯まるのだろう。晴れた部屋の窓から見下ろしても、湖面は随分高くなっていた。
ここは大きな器だ。

村に居た頃、家の屋根に小さな穴が開いていたのだと思う。
雨が降るとそこからぽたりぽたりと水滴が落ちてきていた。
床を水浸しにするわけにもいかず、深さのある器を水の落ちる場所へ置いて雨水を貯めた。

ここの神殿にもそんなのがあるが、神官たちのようにアネキウスの涙を崇め奉りたいわけじゃなかった。
国の辺境で生きていくことがやっとの、か弱い女と小さな子どもの二人が、神を信ずる気持ちは持てなかった。
神がいるのだとしても、ちっぽけな僕らには、とても、目もくれはしないのだろうと思っていた。

今は、目をくれたどころか、妙に依怙贔屓されたものだと知っている。
どこで贔屓をしてくれたものか。
今まで触れたことのないものでも、するすると僕は手に入れた。

もっと違う昔にそれを知りたかった。
ここではない場所で、具体的には僕がずっと過ごしたあの村で、この身の力を扱いたかった。全部を知っていた母が、そうさせなかったとわかっていても。

ただ、決してここから出て行きたいわけではなかった。
一緒にいたい人ができた。褒められることや励まされることは、僕の心を肯定的なほうへ向けてくれた。

雨を貯めるのに器を置いてはじめのうちは、器も空っぽなので、底に雨粒がぶつかって跳ねる音が聞こえる。
しばらくすると水が張って、落ちる音も器に貯まった水にすぅっと吸い込まれるように聞こえなくなる。
そのくらいに、用意していたもう一つの器に替える。

たぷたぷになった最初の器を、中の雨を床にまかないように、そろそろと玄関口まで運ぶ。
吹きつける風に流される雨粒を招いてしまわないよう、戸は細く開け、器の雨は地に流す。すぐに染み込んでわからなくなる。

戸を閉めると、縫い物をする母がありがとうと言って、こちらへ薄らと笑いかける。
本当に小さい頃はそれも嬉しかったが、その作業がもう手慣れたというか、飽きて、癖付いていたものだった。

蝋も油も勿体無くて、薄暗がりの部屋だったが、二人ともどこかへぶつかることは無かったし、指に針を刺すことも無かった。
物の位置も人の位置もお互いすっかり知っていた。
尤も、ぶつかれるくらいの荷物なんて家には無かったけれど。

もうそんなことはしなくてよくなった。
積まれた石の壁は雨を染みださせることはない。おそらく特に、僕の部屋は。
雨の日はサニャが灯りを持ち出してくれるし、なんなら自分の額すらぼんやりと光っていた。

頼んで灯りを消してもらっても、部屋は暗いのに自分の額から零れるように淡い光が発されている。
まぶたを閉じても皮膚越しに淡い色が目に染みる気がする。
だから結局、雨の降る日は徴を隠すように布を巻き付けて過ごしてしまっている。

今日は晴天で、だけど昨日少しきつく巻いてしまったのか、頭が痛い。
露台の手すりに置いた腕に頭を乗せる。湿り気の無い風が首を撫でていった。

「レハト?」

サニャの声がする。ゆるゆると顔をあげると、開けっ放しの戸の窓掛けを結んでいる彼女が居た。
こちらを心配する表情をしていた。
じっと目を合わせると、こつりこつりと近寄って僕の隣に来てくれる。

「……嫌なことでもあったの?」

合っているような気もする。違うような気もする。
正直なところ自分でもよくわからなかった。胸に小さな穴が開いたような、そこから水が染み出してきそうな、そんな感情。

ここに居ることは、嫌いじゃない、ずいぶん好きだと言うものでもないけれど。
無言でいると、そっと僕の手の甲にサニャの手のひらが置かれた。暖かかった。

「疲れちゃうとき、あるもんね。」

優しい声色につい甘えたくなる。
サニャ、そう呼べば、手のひらが退いて、僕は彼女の身体へ凭れかかるようにして、彼女の肩に額を乗せた。
垂れ下がった両手に指を触れれば、どちらともなく握る。

少し、淋しいんだ。
一言こぼせば、握る力が少しだけ強くなる。
風が髪を揺らした。

「サニャは、レハトが居るとさみしくないよ。……レハトのさみしいときは、サニャが側に居てあげる。」

今度は僕のほうが手に力を込める。ひとつ呼吸をして、うん、と返す。
俯いていた顔をあげれば、サニャは柔らかく笑う。
相変わらず良い天気だった。